go to wisteria
July 7, 2009
本当はたいした差ではない人間に大きな差があるかのような測定方法を与えている。陸上競技しかり、野球、サッカー、しかり、特定の測定方法を提示して、人間の差を拡大表示して競わせる。
本来の人間の能力の差なんて、標準分布のグラフでもながめていれば、だいたい現実に存在できる範囲が限定されていることは容易に想像できるはずだ。
社会における競争においてもそうしたレバレッジが存在する。社会のあちこちにあるヒエラルキー構造がそうだし、資本主義というシステムもまたそうだ。
そうしたレバレッジは、特定の個人に他の人々よりもはるかに大きなパワーを与える。
つまり個人の才能、能力といった幻想は、そんなレバレッジとセットであり、レバレッジは個人ではなく社会に帰属する。個人の才能なんてそれを生かす社会のルールがなければゴミだ。
人間の能力差があらわれるのは社会がそうなるように仕組んでいるだけなのだ。
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実は世の中、結構多様な社会のルールが転がっていたりするもので、苦手な社会からひたすら逃げ続けていればそれなりに成功できる気がしないでもないんだ。